校長先生の小窓を開けると

第6回 もう一つの花子物語

2016(平成28)年5月26日、東京都井の頭自然文化園(以下、井の頭)で飼育されていたアジアゾウの「はな子」が呼吸不全のため69歳という高齢で死亡。そして、同年9月3日にお別れ会が開催されました。なんとその会には (写真1)、3,000名近くの参加者がありました。
動物園では、多くの動物が誕生し死亡します。しかし、今回の「はな子」の様に大勢の方々がお別れ会に参列するなどという例はとても珍しいと思います。それはきっと、70年もの長期間に渡り飼育されていたために、沢山の人との出会いと思い出がそれぞれの人々の心に残ったためと思われます。
しかし一方、同じ「花子」という名前がつけられながらも、あまりその生涯を知られずに亡くなったゾウもいます。今回は、そのゾウの話をしようと思います。


その「花子」は、1964(昭和39)年に来日し、1980(昭和55)年に南米パラグアイでわずか20歳弱で死亡したタイ生まれのゾウです。井の頭の「はな子」に比べ約1/3の寿命、しかもそのゾウ(人)生は余りにも「はな子」とは違い数奇なものでした。

(写真1)「はな子」のお別れ会の様子(東京ズーネット,公式から)

 

先ず、年表を見てください、これから分かるとおり、

井の頭の「はな子」は
タイ(1947) → 上野動物園(1949) → 井の頭自然文化園(1954) → 死亡(2016)
もう一つの「花子」は
タイ(1964) → 京都市動物園(1964) → 円山動物園(1966) → 旭山動物園(1967) →(自宅)北海道内2ケ所温泉地(1968) → 清水市三保ランド(1976) → 静岡市(1976) → 南米パラグアイ(1980) → 死亡(1980)
のように、8個所の施設を転々とし、最後は南米パラグアイで死亡しています。
この「花子」は、タイで生まれ(注:1)、1964年から京都市動物園で飼育され、旭山の園長予定者が円山動物園の前園長であったことから旭山動物園の開園に合わせ動物商から購入したものです。開園前年の1966年(昭和41)から耐寒訓練も兼ねて円山動物園で預かり越冬させられました。(写真2) (他にキリン、シマウマ、ダチョウも預かる)
ところが、円山動物園来園時から脚が変形しておりクル病が疑われたので、カルシューム剤やビタミン類を与えられ治療を受けていました。

(注:1) この「花子」の出生年については正確には不明です。動物商によると、1964年にタイで生まれ同年に京都市動物園に移動したと説明されています。しかし、当時、旭山の初代獣医師として円山動物園で研修中のK野獣医師によると、円山では3頭のゾウを飼育していたが1961年に円山に来園したリリー(写真2では、右側のゾウ)と比べても「花子」は大きく、出生年は動物商の説明による1964年ではなくそれより数年前の生まれではないかということでした。

(写真2)札幌市円山動物園での花子、円山の2頭と共に飼育されていた(中央が花子、1966年秋)

1967年(昭和43)、「花子」は耐寒訓練で過ごした円山動物園を離れ、開園した旭山動物園に移動、1年間展示されました。
開園前から旭山動物園は、クル病の「花子」と他のゾウとの交換を購入先の動物商に強く要求していました。しかし開園には間に合わず、やむなく展示となったのでした。翌1968年(昭和43)6月になってやっと代替えゾウが旭山に到着しました。そこでクル病の花子は、はく製業者のS田氏へ、骨格標本を作製する目的で払い下げられました。それは「花子」の生涯が幕を閉じるという意味でした。

(写真3)旭山動物園の開園用に作成されたポスター(同園HPから) 写真のゾウは、花子と思われます

 

ところが、S田氏は約束した標本作りをしないばかりか、しかも札幌市郊外の自宅で「花子」とともに生活し始めました。はく製業者がゾウと暮らす!普通の人には想像がつきません。
どうしてそうなったのでしょうか?
その理由は、彼の著書にもはっきり書かれていません。しかし想像するに、北海道内随一の剥製標本作成の専門家であるS田氏は、その当時は既に会社を息子に譲渡し無職であり、犬猫や小動物と一緒に生活していました。その上、動物に関してかなりの知識や技術があったため、すぐに剥製にせずに、しばらくクル病の治療を続けようと考えたのではないかと思います。
やがて花子は、治療のかいがあって歩けるまでに回復しました。そしてこのころ、S田氏と花子の生活が、全国紙Y新聞の大スクープとなり、以後連日のようにテレビ・新聞など多くのマスコミが訪れ全国一の有名ゾウになっていきました。ひょっとすると当時は、井の頭の「はな子」よりも一般の皆さんに良く知られていたゾウかもしれません。
その理由を考えると、
  1. 「花子」がクル病というハンディを背負っていること、
  2. S田氏が身をなげうってクル病の治療に当たり、ある程度回復させたこと、
  3. NHKをはじめとして新聞、週刊誌など、当時の主要マスコミが美談として大々的に取り上げたこと、そのために、国会議員、市長、芸能人など多くの著名人が応援してくれるようになったから
だと思われます。また一般の方々からは、激励の手紙やエサ(根菜類)の寄付はもちろんのこと、更には、金品などが全国から数多く送られてきました。
その後「花子」の病状は一進一退を繰り返しました。しかし、北海道の温泉での約5年間の治療の効果がみられたために、さらに生活場所が点々とすることになりました。
一時は生まれ故郷のタイのジャングルへ返還する案が出ました。しかしタイへの帰国はかなわず、北海道よりは暖かいところで治療を続けようということになり、テレビ局の斡旋により静岡県清水市の三保ランドに移動、その後の話の行き違いにより静岡市内で生活、更には温暖なパラグアイで生活させられることとなりました。ニューヨークを経由してパラグアイ国アスシオン動物園に移動。そして更に、日本人会会長の農園に移動させられそこで最後の息を引き取りました。
S田氏は、各地で講演に呼ばれるなどの有名人となり、著書は3冊、(写真4)は当時としては珍しいカラー写真の花子が表紙の冊子です。死体は骨格標本(写真5)として、アスシオン国立大学獣医学部に保存されています。

(写真4)S田氏著書の表紙
(花子との生活について著した3冊の内の1冊で、当時としては珍しいカラー写真)

パラグアイ国アスシオン国立大学獣医学部に骨格標本として保存されている。

まとめ

もう一つの「花子」は、20歳に満たない年齢で死亡しました。クル病による脚の変形は、体重の重いゾウにとっては負担が大きく、治療の困難な病気でした。その結果、治療のために国内を転々とし、最後は外国の南米パラグアイが死亡した場所となりました。
同じタイ生まれのアジア象ですが、井の頭の「はな子」と比べて「花子」のゾウ生について、皆さんはどのような感想をお持ちでしょうか。
「日本に連れてこられて幸せだったのか?」
いつまでもその答えは疑問のままですが、良かったなと思われるエピソードを最後に紹介します。
それは、一生を動物園で過ごした「はな子」とは違い点々と生活場所を変えた「花子」でしたが、折に触れ盲学校などの身体の不自由な子供たちの施設を訪れ体を触らせていたことで、多くの人々との触れ合いを果たし特に体の不自由な方からの応援が多かったようです。

参考:国内アジアゾウ物語

名称や飼育数など

(公社)日本動物園水族館協会(以後、日動水)では、アジアゾウの血統登録書を作成しています。それによると、これまで国内では、227番(頭)までゾウが登録されていますが、残念ながら、今回の「花子」は登録されていません。なお、国内初飼育の登録番号001番は、1888年上野動物園に来日したシャム皇帝から寄贈の雄ゾウで、1932年浅草花屋敷で死亡するまで44年間も飼育され、年齢は50歳を超えていました。丁度100番目は1971年に来日しています。この100(番)頭までのゾウのうち、花子(ハナ子、はな子、はなこを含む)という名前のゾウは、合わせて9頭もいて最も多い名前です。性別比はオス19頭、メス81頭と極端な差があります。また、2015年末のアジアゾウの国内生存現在数は、サーカスなどで飼育されている個体も入れて91頭(雄21、雌70)です。
参考文献など
  1. 南後志を訪ねて
  2. 病像花子と2000日 北苑社編(昭和48年10月)

第6回 おわり