次世代を担う若者たちに

東京動物専門学校 永世理事長・川原義郎メッセージ

川原義郎略歴

大正15年(1926年) 東京で生まれる
昭和32年(1957年) 韓国からシマリスを輸入し、動物の輸出入業を開始する
昭和44年(1969年) 熊本市動物大博覧会に貢献
昭和47年(1972年) 鹿児島市平川動物園開園に協力
昭和49年(1974年)4月 犬吠埼マリンパーク開園に協力
昭和49年(1974年)8月 豊橋市動物園のゾウ導入に協力
昭和62年(1987年)4月 東京三田に東京動植物専門学院設立
平成02年(1990年)4月 東京動物専門学校開校(千葉県八千代市)
平成24年(2012年)11月 急性心不全で永眠

懐かしい理事長の声

まだまだ、やりたいことがいっぱいあるの、うまく行って当たり前、まずかったら、あれこれ言われてしまう。しかし、85歳になったので、じっと、カタツムリのようにしているの。そうしたら、誰にも怒られないから。

ナレーション 懐かしい声が聞こえてきましたね。皆さん、覚えていますか。そう、東京動物専門学校の理事長、現在は永世理事長になられた、川原義郎さんです。皆さんに、川原理事長の声を再び聴いてもらえるようになりました。それには、こんな背景があります。
川原さんは、1990年に東京動物専門学校を創立する前は、ー動物商ー動物を輸入・輸出するという仕事をしていました。今では、日本中のどこの動物園に行っても、世界中の珍しい動物を見ることが出来るようになりましたが、ほんの50年ほど前は、その数は多くはなく、世界の動物を見ることは簡単な時代ではではありませんでした。そんな時代、川原さんのような動物商の方々が大活躍、やがて、日本全国の動物園や水族館で、世界中の珍しい動物を誰もが見ることができるようになりました。
当時、世界中の動物たちは、どのように集められ、日本にどのように運ばれてきたのでしようか。現在ほど、移動手段や現地での滞在条件が整っていない時代、その中での仕事は、苦労の連続でした。しかし、聞く方にとっては、みんな興味溢れる珍しい話ばかりです、そこで、2010年、川原さんの自伝を本にまとめようという企画が出ました。その時、資料のためにと、8時間にわたるインタビューが録音されました。しかし、残念ながら、本の出版計画は実りませんでした。
2012年11月27日、川原さんが85歳で急逝されました。そのため、川原さんが残した足跡を記録にとどめておきたいという声が、再び上がりました。そこで、その一つとして、録音テープに残された川原さんのお話を「音声」としてまとめよう、という企画が浮上しました。
2013年、その願いが叶うことになりました。そう、それが今、皆さんが聞いているこのCDです。聞いていただく前に、2つのお断りがあります。一つは、録音テープは本の取材のために、東京動物専門学校八千代キャンパスの理事長室で録音したものです。そのため、一部に聞きづらいところがあるかもしれません。それともう一つ、川原さんの話に登場する主なエピソードは、およそ50年前の1960年代。まだ、ワシントン条約もなく、とにかく世界各地から珍しい動物を日本に持ってきて、見てもらおうという、そういう時代の話です。
ですから、現在の動物園や動物に対する価値観と一部合わないことがあるかもしれません。しかし、川原さんの語るどのエピソードも、現在の動物園や水族館の歴史に、なくてはならなかった1ページです。ですから、当時の貴重な話だと思って、お聞きください。8時間にわたるインタビューから抜粋したほんの一部ですが、川原さんらしいお話が次々と飛び出してきます。どんなことが話されているのでしようか、それでは、早速、お聞きいただきましょう。
  • 永世理事長は、子供の頃から犬や熱帯魚を飼育し、大変な動物好きだった。当初は、兄と一緒に花屋を経営していた。ある日、仕入れ先の植木屋がカナリアの繁殖家として小売店に小鳥を卸していることを知る。自分用にオスを1羽購入し、店頭の籠に入れておいたところ、買いたいという客が現れた。花屋で小鳥が売れたのである。そのことがきっかけで、店で扱う品目に、植木と小鳥と熱帯魚が加わった。そして昭和32年頃、韓国から大量の果実や花の苗木とともに、ウズラや猟犬など動物の注文を受けた。韓国からの招聘で納品と説明に赴いた帰路、土産としてシマリス100匹を受領する。帰国後、店頭に置いたシマリスは数日で完売し、以後、仕事の重点は動物の輸入販売へと移行していった。

(1)熊本動物園の修業時代

川原理事長 熊本の動物園へ行き、動物、鳥を買っていただきたいとお願いしたら、出入りの業者が決まっているので、買うことはできないと断られた。そこで、動物園の欲しいものを言い値で納めるから、買っていただきたいと言ったら「お前は、かわった奴だなー」と笑われた。
それがきっかけで、園長と仲良くなり「お前は、動物の素人なので、飼い方など教えてやるから、うちに来い」と言われ、当時、水前寺公園にあった動物園で修業をすることになった。
動物園近くの下宿から、午前4時には動物園へ行き、庭をきれいに掃除し、水を撒き、動物園の皆さんが来られる頃には、支度してすぐに手伝えるようにした。約半年間続けてやったので、それ以来、園長は、何でも教えてくれるようになった。
例えば、トラのエサはクジラの肉を切り水にさらして解凍し与えるといい。また、鶏肉は、そのまま与えるのではなく、嘴を切った方が良い。理由は、嘴を溶かすだけのカロリーが必要になるから、最初から嘴を切って与える方がよいというようなことだった。
動物の檻の作り方も教わった。こうやって作るのだ、ああやって作るのだ、そうすると頑丈なものを作れると、こまごまと教えてもらった。
それらが、現在も冨里飼育場にあるゾウの檻、ライオンの檻、他の業者は全く持っていない川原だけのオリジナルな檻に引き継がれている。
  • 昭44(1969)年に現在の熊本市動物園は熊本市健軍に新設移設し開園(水前寺動物園は閉園)した。昭和40年から準備を初めたが、その頃に、理事長は修行すると共に新動物園へ動物(ゴリラ2、ワオキツネザル2、ケナガクモザル1、ヘラジカ2、シフゾウ2、アメリカバイソン1、)を納入した。当時の熊本市動物園長は竹田 斎(ひとし)氏。
ナレーション 川原義郎さんは大正15年(1926年)の東京生まれ。生花業、つまり活け花を扱う花屋さんの2代目でした。その花屋さんが、動物の世界へと足を踏み入れたのは、30歳代前半でした。もともと勉強熱心な川原さん。そこで、先ほどのお話にあったように、動物の世界を知ろうと、半年間、熊本の動物園で、見習い生活を送りました。
そこで学んだ、動物を飼育する技術や、動物を移送する技術が、後に大いに役だち、その後、川原さんは、日本や韓国の動物園や水族館の求めによって、世界中からたくさんの動物を集めることになりました。野生の王国、南アフリカのボツアナや東アフリカのケニアにも出かけました。

(2)ケニアからチータをもってきた

川原理事長 アフリカのボツアナに行った。そこには、動物がたくさんいた。世界中の業者や剥製士が皆、動物を購入し、配っていた国だ。そこへ行って、チーターを買ったり、いろんなことをした。ですから、韓国のソウル動物園に、一番先に動物を納入したのは私。呉という名の園長のところに一番先に、チーターをもっていった。チーターも慣れていないので、園長がどう扱うのか心配だった。ところが、園長は、さっさと檻に近づき、チーターがオリから出てきたら「アー、よしよし」と猫同様に扱ったので、さすが名園長だと思った。

チーターの捕獲法

(3)アフリカでキリンを捕まえる

ナレーション 川原さんは自らの足で、世界各地を巡りました。動物を捕らえる時も、現地の人とともにジープに乗ってサバンナを駆け巡りました。捕らえることも大変なことですが、補らえた動物たちを馴らし、日本に運ぶのも大変な苦労だったようです。
川原理事長 ほかの業者は、現地の動物業者に任せるのですが、私は、そういうことはしないで、「おもしろいし、一緒に手伝うから、捕まえるところを見せてくれよ」と言って、ジープを運転しながら、キリンを追いかけた。
問い 普通の業者は、現地の人に頼んで、捕まってくるのを待っているだけですか?
川原理事長 普通は、マサイ族に頼んで、業者はやらない。しかし私は、英語は分からなかったが、マサイ族出身の通訳者を連れて、自分自身で行った。
問い それらの動物は船で運ぶのですか?
川原理事長 ドイツの船で運びました。ドイツの船は当時、アフリカから日本に運ぶ時に、一番速いという理由です。
ケニアの港町、モンバサに行くと、ちゃんとスケジュールが船会社にはある。
そこで、この船で動物を運んでくださいと、依頼すればいいのです。
運賃はどうするのかとたずねると、「まずここで半金を支払い、名古屋港に着いて荷卸しが終了したら、残りの半金を支払えばOK」といわれた。
問い キリンは、生の枝や草を食べているので、乾燥した草はすぐには食べない。
それをどう教育したのですか?
川原理事長 キリンを捕獲後、最初はアカシアの葉を食べさせて、それから徐々にアカシアの葉を減らし、代わりに乾草、牧草を与えていき、最後は牧草だけにしました。
それで、エサを生の葉から乾燥した牧草に慣らした。約2ヶ月聞を要し、大変苦労した。
その間、いろんなことが、よく分かったよ。
問い その2ケ月間は、そこにずっと待っているのですか?
川原理事長 そう、ずっといる。
問い キリンの捕獲を、マサイ族に頼みましたよね。捕獲したキリンは、ずっとマサイ族の所にいるのですか、それとも、どこかに運ぶのですか?
川原理事長 英国人の施設。外国から注文された動物を一時保管するところがあり、そこに依頼した。
そこの英国人は、預けたキリンを見て、これらは特等品だ。自信を持って日本へ持っていけるよと、言われた。
ナレーション 捕らえた動物を日本に運ぶには、いろいろな苦労があったのですね。
聞いてしまえば当たり前のことのように思えますが、食べるものだって、考えなくてはなりません。キリンはどんなものを食べているのかご存知ですか? 川原さんの話にあったように、キリンは、サバンナに生えるアカシアの木の葉を食べているんですね。しかし、日本ではアカシアの葉は手に入れるのは困難です。そこで、アカシアの葉の代わりに、牛や馬に与える「牧草」を選んだのですね。牧草の量をだんだん増やすという方法でキリンを馴らしていきました。キリンが食べ物に慣れてきたら、今度は運ぶ方法を考えなくてはなりません。
今の時代はジャンボ機があって、背の高いキリンでも運ぶことができます。しかし当時は、今から比べれば小さな飛行機ばかりです。背の高いキリンなんてとても運べません。
そこで利用したのが貨物船でした。川原さんは牧草に慣らしたキリンとともに、インド洋を渡って日本へ。その2ヶ月間、川原さんはキリンとともに船の上で過ごしました。ですから、日本や韓国の動物園で、観客がキリンの姿を見られるようになるには、なんと半年近い時間がかかったわけです。ほんとうに、大変な仕事でした。

キリンの捕獲法

(4)パプアニューギニアで極楽鳥に出会う

ナレーション さて、皆さんは、「極楽鳥」という鳥をご存知ですか?
『極楽鳥」という名前は、英語の名前「Birds of Paradise」からきています、華麗な風貌で、たくさんの鳥の愛好家たちを魅了してきた、当時は「幻の鳥」と呼ばれるほどなかなか見ることのできない鳥でした。
ですから、川原さんは、ぜひともこの極楽鳥を、日本の人々に見てほしいと思い、極楽鳥を求めてパプアニューギニアに向かいました。
川原理事長 特に、興味があったのが、極楽鳥。世の中で一番きれいな鳥。そこで、極楽鳥を捕まえるべく、パプアニューギニアへ行った。行ってみると、ビックリした。何種類もの綺麗な極楽鳥がいるのが分かった。それまで知っていたのは、黄色と赤色だったが、白いのもいた。しかし、捕まえようとしても、とうとう捕まえられなくて、剥製を買ってきた。生き物を持って来られなかった。
また、キノボリカンガルーにも出会った、危険を感じたら、すぐ木に登るのです。サルとは違います、ワラビーみたいなものです。
ナレーション 極楽鳥は、剥製を買ってきた。計画通りにいかなかったこともあるんですね。
相手は動物、思うようにいかないことだってあったのです。でも、川原さん、木に登るカンガルーを見て、驚いたことでしょう。こうして、川原さんは、動物や鳥を求めて世界中を旅しました。

(5)ヒグマの捕らえ方と輸送

川原理事長 ソビエトへ行って、熊本の阿蘇のクマ牧場のために、シベリアのヒグマというものを捕まえたのがイルクーツクですよ。どこが違うかというと、日本のヒグマの場合は鼻がつまっている。シベリアのクマは、食べているものが蜂蜜なので、ロが長くシカみたいな顔つきだが、体はクマなのです。そこで、どのようにしてクマをとらえるか、事前に練習のため、木曽の熊取りの名人のもとに行った。そこではドラム缶、この頃テレビの自然番組で良く見るようになったが、同じ様にドラム缶を2本連結し、一方に穴をあけて熊が入れるようにする。
中には、カンテラと蜂蜜をいれる。温めると、ハチミツの臭いがカンテラから拡散する。すると、クマはあすこにハチミツがあると分かり、すぐクマはドラム缶の中に入った。舐め始めると、戸が閉まるので、それを担いで山から降りる。その方法でやれば良いといわれた。
あの時、ヒグマを10頭捕まえて、イルクーツクから電車でとことこナホトカまで来て、日本の門司港に向かった。このクマは、阿蘇のクマ牧場に収めるクマだった。ところが途中で、台風にぶつかった。北朝鮮のラシンの港に着けた。ソ連の船だったから、当然上陸はさせてくれなかった。しかし、台風で船が揺れ、クマが狂ったように泣き叫んだ。船長が来て、なんとか静かにさせて欲しいといわれたので、何とかするから、ウオッカをくださいと申し入れた。そこで、私の持っている蜂蜜と船長からもらったウオッカを混ぜて、クマに飲ませた。そうすると、次から次とクマたちは酔っぱらって、皆、寝てしまい、静かになった。あれだけ騒いでいたクマたちが静かになった。世の中とは、不思議なもので、ウオッカや、あの蜜を売ってくれた人や、この時初めて、あぁ、神様はいるものだと思った。そういう災害に会ったときに、初めて神様がいるものだと思った。
ナレーション 「船に酔って騒ぐ」クマたちを、今度は「お酒に酔わせておとなしくさせてしまった」んですね。アルコール度の高いウオッ力、これをなめさせられのですから、さぞかしクマたちは良い気分になったのではないでしょうか。どんな仕事でも、機転が必要ということですね。 さて、川原さんは、世界中の動物や植物を日本全国の動植物園や水族館に納めていく中で、「動物に対する正しい知識と技術をもった次世代の人材を育成しなければならない」と、思うようになりました。
そう、川原さん自身が熊本の動物園で学んだ動物を飼育する技術や動物を移送する技術を、若者に伝えて行きたいと考えるようになったんです。
平成2年・1990年、その夢がかないました。日本で初めて、動物園や水族館、動物病院で働く飼育管理技術者を養成する専修学校として、東京動物専門学校を開校しました。
川原さんは理事長として、20年問、学校運営にあたりました。そして、毎日のように校門の前に立ち、すべての学生たちに「おはよう」の声をかけ続けました。
川原さんが送りだした卒業生は、2,000人以上。今、その教えを学んだ卒業生は、北は北海道から南は九州・沖縄まで、日本全国の動物園、水族館、そして動物関係の施設で働いています。

(6)学生へのメッセージ

川原理事長 「お前たち、お金が欲しいだろう。出来ることはどういうことができるか、何だ?」と問うたら、学生たちから「分からない」との返答があった。それなら、例えば、ビーカーの中にクワガタをペアで入れ、育ててみたら、来年の2~3月頃になったら、幼虫になるので、インターネットを利用し、販売してみたらどうだ。飛ぶように売れるのではないか。お金は自分で作らないとだめだ。世の中にはクワガタで商売している人がたくさんいる。うちみたいに動物の種類の多い学校は、ほかにない。哺乳類から鳥類まで、爬虫類までいる。職場はたくさんあるので、何でも、やる気になれば、何でもできる。そこで、何年か我慢すると、立派な技術者になれる。
ナレーション 「やる気があれば何でもできる」、川原さんは、学生たちに向けて、いつもそう言い続けました。2013年秋、八千代キャンパスの1階に川原義郎永世理事長の銅像が飾られました。これからは、銅像が学生たちを見守ることになります。
それでは最後に、東京動物専門学校の校歌「空を越えて」を聞いていただきます。
1995年、校歌がなかった学校に、川原さんの熱い希望でできました。
歌詞にあります「一つ一つの命の鼓動、この手に抱きしめて歩いて行こう-・・」
川原義郎永世理事長の、次世代を担う若者たちへのメッセージが込められています。
それでは、最後にお聞きください。
東京動物専門学校の校歌『空を越えて』です。

東京動物専門学校 校歌「空を越えて」 作詞・作曲 清田愛未

ひとつひとつの命の鼓動この手に抱きしめて歩いて行こう
暖かくて優しいあの瞳がいつも私たちを待ってる
この想いは空を越えて世界中に広がり未来繋ぐ
同じ夢たち描く仲間と一歩ずつここから歩いて行こう
どんな時も独りきりではないと隣にある笑顔語ってる
いつか遠く羽ばたいても絆は空を越え繋がるでしょう
この場所から世界中へどこまでも行けるよ
空を越えて


(2012.8月、八千代校舎理事長室にて収録した録音をもとに作成したもので、話し言葉のため、理解しやすいよう一部を改編しています。)

構成・西谷清治(日本放送作家協会)
語り・宮川泰夫(元NHKアナウンサー)
音楽・菊池由香(オーディオ・ファクトリー)
編集・吉原智彦(フォンテック)
制作・株式会社フォンテック
製作著作・東京動物専門学校

参考にさせていただいた資料は次の通りです。

  1. 動物大移動ものがたり 竹田 斎著 熊日出版2008年11月発行
  2. Discover Madagascar Air Madagascar編  1977年発行
  3. HP(http://www.birdsofparadiseproject.org/index.php)
  4. 川原鳥獣貿易株式会社(ホームページ)等